HISTORY
1981年の国際障害者年を記念して、世界で初めての「車いすだけのマラソンの国際大会」としてスタート した本大会は、以来毎年開催され、世界最大、最高レベルの大会として国内外から高い評価を受けています。
1975年、世界で初めて車いすランナーを受け入れたボストンマラソンがきっかけとなり、大分県内の車いす使用者から「別大マラソンへの参加を認めてほしい。」という要望が上がり始めた。 車椅子選手の参加は困難であるという理由から、健常者と障害者がともに走ることは実現できなかったが、中村博士からの「世界初の車いす単独のマラソン大会を」という提唱により1981年11月1日、参加15か国、117名が参加し記念すべき第1回大分国際車いすマラソンがスタートした。
昭和27年、九州大学医学部整形外科医局に入り、天児民和(あまこたみかず)教授に師事、リハビリテーションの研究を勧める。健常者と同様の自立を促すため昭和36年、「第1回大分県身体障害者体育大会」の開催や昭 和39年に開催した東京パラリンピックの誘致に尽力。東京パラリンピックでは日本選手団団長を務めた。昭和40年、「保護より働く機会を」をモットーに「太陽の家」を設立。障がい者雇用やパラスポーツの促進をとおして、障がいのある人とない人が共生する社会づくりに大きく貢献した。
1981
第1回大会ではハーフマラソンのみ開催した。第1回大会のフィニッシュでは、トップを走っていたオーストリアのゲオルグ・フロイント選手と、アメリカのジム・ク ナウブ選手が手を握りあってゴールした。しかし、「この大会は、タイムを競うレースであって、単なるレクリエーションではない。」として、フロイント選手を優勝、 クナウブ選手を2位とし、競技色を強く打ち出した。
1983
昭和58年(1983年)11月13日に開催した第3回大会 から(フル)マラソンを導入した。同時に、国際ストーク・マンデビル車椅子競技連盟の公認大会となった。(第27回大会からは世界パラリンピック委員会、第37回大会からは世界パラ陸上競技連盟の公認大会として、今日に至る。)
1999
平成11年(1999 年)10月31日に開催した第19回大会において、スイスのハインツ・フライ選手が1時間20分14秒の世界新記録で7連覇、通算9回目の優勝を果たした。2021年9月現在、このタイムは今も最速クラスの世界記録として破られていない。
2006
平成18年(2006年)10月29日に開催した第26回大会ではマラソン男子T53/54で大分県の笹原廣喜選手が日本新記録(当時:1時間24分15秒)を叩き出し、同クラスにおいて悲願の日本人初優勝という快挙を果たした。
2016
平成28年(2016 年)10月30日に開催した第36回大会で大会史上初となる全国TV実況生中継(OBS大分放 送及びBS-TBS)を実施。
大分国際車いすマラソンの公式シンボルマークは、大分県立芸術短期大学(当時:現在の公立大学法人大分県立芸術文化短期大学)の教授・大蔵善雄氏のデザインをもとに、大会実行委員会が第2回大会時(昭和57年)に定めたものである。このマークは、ふたりの人間が手を結び、互いの連帯・協調を誓い合っている姿を象徴している。それを取り巻く月桂樹は、勝利と友愛を表している。
昭和56年の国際障害者年の記念事業として開催した「大分国際車いすマラソン」が、昭和57年以降も継続開催されることとなり、第2回以降の大会への理解と協力を高めるために作製したものである。
大分国際車いすマラソンの公式ロゴマークは、第30回記念大会(平成22年) に際して大会実行委員会が定めたものである。 競技用の車いす(レーサー)へ乗り、フィニッシュに向かって力強く疾走する選手の姿は、第30回を記念して、30°右に傾けた大分県の地形をそのまま使用している。
平成21年8月、大分県障害福祉課でのインターンシップ中であった植松桃子氏(大分市)が、原画を作製した。その後、植松氏が部長を務めていた大分大学漫画研究部に清書を依頼し、部のOBであった日隈毅氏(九重町) の作品をベースに最終調整を行った結果、両氏の共同製作として平成22年4月、完成に至ったものである。
車いすマラソンの平均的な速さは時速約30~40キロメートル。この速さはツキノワグマやヒグマの走る速さと同じ。「熊のように勇ましく、素早くゴールに向かって進んでほしい」という参加選手への激励をこめて第5回大会が開催された1985年にすすむくんを公式マスコットキャラクターとしました。