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ヒストリー

「大分国際」誕生の経緯

 世界で初めて車いすランナーを受け入れたマラソン大会は、ボストンマラソンであった。ボストンマラソンは、1996年に100回を数えた歴史ある大会で、ストーク・マンデビル車椅子スポーツ連盟の公認は得ていないが、全米脊髄損傷連盟ニューイングランド支部、ニューイングランドスポーツ協会の支持を得ている。また、全米車いすマラソン選手権のコースとして指定を受けている。

 1975年、参加資格をめぐり、訴訟を起こして初めて参加した24歳のボブ・ホールの記録は、2時間58分であった。彼の勇気が、車いす使用者の闘争心に火をつけたと言われている。

 1977年には、初めて女性の車いすランナーが参加した。イリノイ州のシャロン・ラーンという選手で、その記録は、3時間48分であった。

 1980年には初めて、健常者の記録を上回った。当時の健常者の世界記録は、2時間8分38秒であったが、上位4人が全員この記録を上回った。その記録は、カート・ブリンクマンの1時間55分であった。

 日本でも一般のマラソンに車いす使用者が出場したというニュースが報道されるようになり、70年代後半に大分県内の車いす使用者からも別大マラソンへの参加を認めてほしいという要望があった。

 そのような情勢の中、1981年(昭和56年)大分県で行う、国際障害者年の記念行事を検討する中で、

  • 日本人に親しまれ、
  • 障害者の逞しさが表現でき、
  • ふれあいと継続性のある、

企画として、「世界初の車いす単独のマラソンを」と大分中村病院の院長であり、別府太陽の家の理事長でもあった中村裕博士が提唱し、就任2年目の平松守彦大分県知事の決断により、ゴーサインが出された。

 そして、正式に日本体育協会と、大分陸上競技協会に参加を申し込んだが、車椅子選手の参加は困難との回答だった。理由として、

  • 日本陸上競技連盟登録が参加資格である。
  • 足で走ることがルールである。

ということが上げられた。

 ボストンマラソンのように、別大マラソンの健常者と共に走ることを夢見たが、実現しなかった。しかし、車いすマラソンを別個に開催するのなら、協力するという約束をとりつけた。

 コースの決定には、大変な苦労があった。当初は別大マラソンのコースで検討したが、警察は交通渋滞を楯に猛反対した。現在のコースは妥協案であったが、結果的には、沿道からの応援も多く、走りやすい素晴らしいコースとなっている。

 大会の準備段階では、42.195kmを完走できるかどうかが疑問視され、まずハーフマラソンから初めては、ということで、1981年11月1日、参加15か国、117名で記念すべき第1回大会がスタートした。

 第1回大会のゴールでは、トップを走っていたオーストリアのゲオルグ・フロイントと、アメリカのジム・クナウブが手を握りあってゴールした。しかし、「この大会は、タイムを競うレースであって、単なるレクリエーションではない。」として、フロイントを優勝、ジム・クナウブを2位とし、競技色を強く打ち出した。

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